プロローグ
前を塞いだ水色の車。
後部の形状からわかる。ホンダフィット。あの速度だと自動運転だろう。こっちが接触しそうになっても向こうが避けてくれるはず。大引伸人(おおびきのぶと)は道幅ぎりぎりでフィットを追い抜いた。予想通り、ぶつかることはなかった。
そして一瞬の後、そのことを忘れる。
飛洲中華街のほど近く、大通りから一本入ったところ。そこは移民居留区の北端に位置している。貧しい男女が身を寄せ合うように暮らしているが、最下層の人間が住んでいるわけではない。まだ屋根と壁があるだけマシだ。
大引はステアリングを左に切り、エクスプローラーエディバウワーの大きな車体をこすりそうになりながら路地に入った。
朴泰治(ぱくやすはる)がいた。フロントガラスに映し出された。二階建てアパートの外付けの階段を下りている。緩慢な動きだった。手前にある潰れそうな小屋の陰に、その姿が隠れる。そして再び現れた。
減速しながら助手席のドアを開けた。冷たい風が一気に侵入してくる。
「急げ」
大引は言った。
朴が座席に収まるのを待たず、アクセルを踏み込む。束の間、空転したタイヤが地面を捉え、エクスプローラーが急発進した。
「ほんで?」
朴がドアを閉めながら不機嫌そうに言った。寝起きのせいか顔が腫れぼったい。
「なんだ?」
「今日は何を?」
「ビッグCから何も聞いてないのか」
「さっき電話で言うたやろ。起きたばっかりや」
「こいつを拉致」
大引はホログラム写真を胸ポケットから出した。朴に手渡す。
「マジで言うてんのか」
朴が呆れ声で言った。
「冗談なわけねぇだろ」
「あかん。俺は降りるで」
「この車を、か。それとも……」
「両方や。このオッサンは宗大組の組長、宗像大介やないか」
「言われなくても知ってる」
「今まで友好関係を保ってきたのに。なんでや」
「友好? 金を納めて見逃してもらってたってのが正解だな。飛洲(とびしま)で商売するのを」
「どっちゃでもええわ。なんで宗像なんや」
「一週間前、王翔とかいう奴が路上でボコられて死んだだろ?」
「あれを、宗大組がやった言うんか」
「ビッグCはそう思ってるらしい」
「くそったれ。俺は宗大組と揉めたないんや」
「なぜだ?」
「あそこの若頭と、昔ちょっとな」
「一木、だったか? びびってるってことか」
「悪いんか」
朴がふて腐れたように言う。
「そもそも数がちゃうねんぞ」
「数だけなら俺らのお仲間もなかなか多いぜ?」
「移民は荒っぽいだけで使える奴が少ない。しかもガキばっかりやないか。ギャングスタなんて恥ずかしい名前つけくさって」
「それをビッグCの前で言ったらどうだ?」
「言えるか、どあほ」
「俺らは遊撃隊だからな。言われたままに動くしかない」
「鼻つまみ者やとはっきり言うたらどないや」
朴が盛大に溜息をついた。
大引はステアリングを右に切って、車線を変更した。周りは自動運転の車ばかりだから、少々荒い運転をしても接触することはない。
朴の悪態がひとしきり続いた。それが、これからの仕事に対する不満に変わったとき、大引は口を挟んだ。
「心配すんな。拉致うだけだ」
「そこがわからへん。報復したいなら殺すんが普通やろ」
「そう命令してもらいたかったのか」
「んなわけあるか。ヤクザのしつこさは異常や。地獄の果てまで追いかけてきよるわ」
「自分が地獄に行くってことはわかってんだな」
「俺は昔っから神さん仏さんとの折り合い悪いねん」
そう言って、朴が後部座席を振り返った。
「おい。モーリス、スミス。いてんのか」
「え?」
モーリスの野太い声が聞こえた。既にアクティブ迷彩コートで偽装しているので、その姿は見えにくい。
「しょうもない音楽聞いてる場合とちゃうぞ」
「なんか言ったか」
「おまえはいつもクールやな、ブラザー。そう言うたんや」
朴が首を戻して前を向いた。
「ビッキー。スミスは?」
「現場に先乗りしてる。偵察だ」
「相変わらず仕事熱心やな、あいつは。前科者の鑑やで」