【書介】ダシール・ハメット『マルタの鷹』~これを読まずにハードボイルドは語れない②
『これを読まずにハードボイルドは語れない』の第二弾は、
ダシール・ハメットの『マルタの鷹』
です。
2012年に、改訳決定版(小鷹信光 訳)が出ています。
80年以上も前に書かれた作品なのに、いまだに改訳版が出るところからも、ハードボイルド界隈での知名度、人気が窺い知れますよね。
目次
ダシール・ハメットとは
ダシール・ハメットとは
です。
ハメットが完成させたハードボイルド小説というジャンルですが、これは辞書的にいうと
暴力的・反道徳的な内容を、批判を加えず、客観的で簡潔な描写で記述する手法・文体(で書かれた小説)
です。
ハードボイルドについて詳しくは、こちらをご覧ください
現在では、ハードボイルドの手法を用いたミステリー小説はほぼありません。
手法としては、時代遅れというか、流行りではないからです。
(登場人物、とりわけ主人公の心理描写を主として物語が進んでいくこと、つまり客観的ではない表現が最近のミステリー小説では多くなっています)
ですが、ミステリー小説の一ジャンルとして、後世に大きな影響を与えたハードボイルド小説の一群を知っておくのも悪いことではないと思います。
中でも、ハードボイルド小説のバイブル的な作品が、今回紹介する『マルタの鷹』です。
マルタの鷹とは?
1929年から1930年にかけて、大衆向け雑誌の『ブラック・マスク』(※1)に連載された、ハードボイルド長編小説です。
この作品で、私立探偵を主人公とするハードボイルド小説が完成したとされています。
前項で、ハードボイルド小説を説明するのに『客観的で簡潔な描写で記述する』と表現しました。
これはより具体的に言うと、主人公を含む登場人物の内面を描かないということです。
三人称カメラアイ(※2)と呼ばれる視点で描かれているので、登場人物のセリフや行動から何を考えているか推し量るしかないわけですね。
※1 『ブラック・マスク』・・・ J・S・フレッチャーやキャロル・ジョン・デイリー、レイモンド・チャンドラー、E・S・ガードナーなどミステリー小説やその一ジャンルであるハードボイルド小説の有名作家が寄稿していた大衆雑誌(パルプマガジン)。
※2 どの登場人物にも偏らず、固定されたカメラから見ているような視点のこと。
序盤のあらすじ(※ネタバレ注意)
主人公であるサミュエル(サム)・スペードの外見が、冒頭で示されます。
サミュエル・スペードの角ばった長いあごの先端はとがったV字をつくっている。口元のVは形が変りやすく、反りかえった鼻孔が鼻の頭につくる、もうひとつの小さなv。黄ばんだ灰色の目は水平。鉤鼻の上の二筋の縦皺から左右に立ちあがる濃い眉がふたたびV字模様を引き継ぎ、額から平たいこめかみの高い頂きにかけて、薄茶色の髪もVを成している。見てくれのいい金髪の悪魔といったところだ。
『マルタの鷹』(小鷹信光訳)から引用
この『金髪の悪魔』ことサム・スペードを、ある女性が訪れるところから物語は始まります。
この女性(ワンダリーと偽名を名乗る)は、妹を捜してほしいとサムに依頼します。
ワンダリーは、妹の行方を知っていそうなフロイド・サーズビーという男の存在を挙げます。
この件を引き受けたのは、サムの相棒であるマイルズ・アーチャーなのですが、アーチャーとサーズビーは依頼のあった夜に死体となって発見されます。
警察はアーチャー殺しの嫌疑を、彼の妻と密通していたサムにかけます。
翌日、連絡があって、ワンダリーに会いに行ったサムは、彼女の本名がブリジッド・オショーネシーであることを聞かされ、守ってほしいという依頼を新たに受けます。
また、その夕方、ジョエル・カイロという男がやって来て、『黒い鳥の彫像』を探していることを告げます。
事態はここから、別の展開へと変わっていきます。
マルタの鷹の魅力
一つの文芸ジャンルとして扱われるほど、徹底的に内面を排除した客観的な文体で物語が描かれているというところです。
この点においては、(とりわけ日本で)ハードボイルド作家の代表格とされるレイモンド・チャンドラーより徹底しています。
チャンドラー作品の翻訳者でもある、村上春樹さんはハメット作品を
心理描写を省くことが可能なら、自我の存在という前提そのものを(一時的にせよ)取り外してしまうことが可能なのではないか?
【中略】
あるときにはハメットの文章は我々をシュールレアリスティックなまでにハードでクールな場所に、ある場合には前衛的ともいえそうな場所に連れていく。
しかしときとしてそれは、味も素っ気もない、耐え難いまでに潤いを書く場所に我々を置き去りにする。『ロンググッドバイ』訳者あとがきより抜粋
と表現しています。
これをかなりくだけた言い方、かつわかりやすく書くと、
徹底的に外部描写だけをし、主人公(及び登場人物)が何を考えているのか窺わせないようにしている
ということです。
こうすることにより、無駄のない簡潔な文章で物語がスピーディーに展開させることができるようになります。
そして、ある意味、現実に近い世界を表現することができるとも言えます。
というのも、現実世界は常に動き続けていますし、自分以外が考えていることは言動や行動から推測するしかないからです。
この辺に関しては、結局好みの問題になりますので、登場人物の内面を描く葛藤を共有し、共感する作品が好きな方には向かないと思います。
スポンサーリンク
僕がマルタの鷹を好きな理由
理由は2つあります。
徹底して簡潔かつ客観的な文体
前項で紹介した通り、【徹底】しているからです。
ハードボイルド文体で小説を初めて書いたとされる、アーネスト・ヘミングウェイよりも客観的です。
ヘミングウェイは、言動・行動から内面(あるいは自我)が立ち上がってくるような文体で小説を書きました。
それは、彼の文章の上手さもあって、芸術的とも言える出来栄えです。
しかし、ハメットは、それさえも拒否して、報告書のように物語を進めていきます。
ある意味、映画的とも言えます。
(実際に、三度も映画化されていますが、それはまた別の話です)
主人公、サム・スペードのキャラクター
また、もう一つの理由として、作中で『金髪の悪魔』と評される主人公のサム・スペードの存在があります。
この男を語らずして、その後、80年以上にわたって描かれてきたハードボイルドな登場人物を論ずることはできません。
というより、ハードボイルド的な登場人物の原型が、このサム・スペードであると言えます。
マルタの鷹は、20章(序文除く)から成り立っていますが、その第2章の冒頭にその真髄が現れてい(るように個人的には思え)ます。
暗闇で電話のベルが鳴った。三度響いたとき、ベッドのスプリングがきしみ、指が板の表面を探りまわり、小さな固いものが音を立ててカーペットに落ち、スプリングがもう一度きしみ、男の声がした。
「やあ……ああ、おれだ……死んだって……わかった……十五分くれ。じゃあ」
スウィッチの音がして、天井の中央から三本の金メッキの鎖で釣られた白いボウル型の明かりが部屋を照らした。緑と白の格子縞のパジャマを着け、素足のまま、スペードはベッドの端に坐った。テーブルの電話機をにらみ、そのわきに置いてある茶色の紙を入れた箱とブル・ダラムの刻み煙草の袋を、両手でとった。
明け放した二つの窓から湿った冷たい風が吹き込み、十秒おきにアルカトラズ島の霧笛の鈍いうめき声を運んでくる。テーブルに伏せてあるデューク著『アメリカ著名犯罪事件集』の隅を危うげにまたいでいる小さな目覚し時計の張りは二時五分すぎを指している。
『マルタの鷹』(小鷹信光訳)から引用
この後に煙草を巻いて吸い、出かける準備をする描写が続きます。
何のことはないシーンであり、小説のプロットというか内容には関係ありません。
しかし、このシーンは作品を魅力的にするものとして、とても重要です。
こういう雰囲気をどこかで見たことがありませんか?
ハードボイルド的な登場人物を、それとは直接的に言わずして、わかるようにする、ある意味類型的な表現方法です。
特筆すべきは、これを最初にやったのが、ダシール・ハメットだということです。
また、サム・スペードは女性にとても弱いのですが、それを当の女性に悟られることを嫌うという『強がり』な一面もあります。
こういうところも、ハードボイルド的な登場人物にありがちですね。
もっとも、その図式を(ハードボイルド小説において)確立させたのもダシール・ハメットだというわけです。
スポンサーリンク
マルタの鷹を読むにあたっての注意点
先にも説明しましたが、80年以上前の作品です。
古典の名作として読むべきものです。
いくら昔の作品が良い、優れているとはいえ、今の作品と比べれば完成度は落ちます。
その点はあらかじめご了承ください。
なぜそうなるかというと、80年以上もの間、小説における技術は更新され続けたからです。
そして、その多くは過去の作品を超えるべく書かれたものです。
音楽で例えるなら、ルイ・アームストロングの曲がいかに素晴らしいとはいえ、今、それを真似したら古臭いを通り越してダサくなってしまうのと似ているかもしれません。
しかし、『サッチモ』ことルイ・アームストロングを、(好き嫌いは別として)20世紀のジャズ界を代表する人物と評するのに異論はないはずです。
マルタの鷹を書いたダシール・ハメットは、そういう存在だというわけです。
【コラム①】御三家とは言われるけれど
余談ですが、古典ハードボイルド御三家(日本だけの呼称)として、ダシール・ハメット、レイモンド・チャンドラー、ロス・マクドナルドの名前が挙がります。
この三人が代表的なハードボイルド作家という認識です。
しかし、そもそもチャンドラーはハメット作品を参考にして、ブラック・マスク誌に処女短編『脅迫者は射たない』を発表しました。
(その後、数年経って最初の長編『大いなる眠り』で独自の世界を築き上げ、文筆家としての評価を上げます)
また、ハメットやチャンドラーと共に、日本では古典ハードボイルド御三家の一人とされているロス・マクドナルドもハメット(とチャンドラー)に大きな影響を受けています。
このことからも、ハメットがハードボイルドの元祖だと言われることがわかりますね。
【参考】
⇒【書介】これを読まずにハードボイルドは語れない① ~レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』
【コラム②】ハメットの前にハードボイルドの元祖がいた?
更に余談ですが、ハードボイルドの元祖というと、キャロル・ジョン・デイリーを挙げる人もごくたまに(ほぼ皆無ですが)います。
これは、ブラックマスクの1923年5月15日号に発表された『Three Gun Terry』という短編、1923年6月1日号『クー・クラックス・クランの街』(KKKの町に来た男)が、ハメットの『放火罪および……』(1923年10月1日号で発表)よりも先に書かれているからです。
『Three Gun Terry』は、私立探偵テリー・マックが主人公、『クー・クラックス・クランの街』は私立探偵レイス・ウィリアムズが主人公です。
このことからわかるように、私立探偵を主人公に据えたミステリー小説は、キャロル・ジョン・デイリーの方が早いわけです。
また、僕は未確認なのですが、1922年に発表された『偽のバートン・コムス』というデイリーの作品がハードボイルドの手法で書かれているようです。
(ちなみに、『クー・クラックス・クランの街』のレイス・ウィリアムズは、作中で自らを「ハードボイルド」と主張しています)
しかし、現在、キャロル・ジョン・デイリーの名前がハードボイルド小説を語るときに出てこないのは、作品としての完成度が高くないということが一番に挙がります。
要するに評価が低いわけですね。
つまり、あくまで『ハードボイルド小説』(ハードボイルド・ミステリー)を完成させたのは、ハメットだということです。
ですので、参考程度に、ハメットより前にハードボイルド作品を書いた人がいるということを知っておいてもいいかもしれません。
ダシール・ハメットの作品
最も有名なのは、『マルタの鷹』です。
また、それ以外では、『マルタの鷹』以前にハメットがハードボイルド文体で書いた、『コンチネンタル・オプ』シリーズがあります。
こちらは、短編集です。
コンチネンタル・オプものの最初の長編、『血の収穫』(赤い収穫)です。
同じくコンチネンタル・オプものの長編で初期の代表作である、『デイン家の呪い』です。
また、サム・スペードやコンチネンタル・オプではない、探偵役ネド・ボーモンが登場した『ガラスの鍵』も有名です。
こちらは2度映画化されている上、『ガラスの鍵賞』という北欧五カ国の推理小説を対象にした賞も存在します。
こちらは長編、『影なき男』です。映像化作品もあります。
映像作品
マルタの鷹は過去、1931年、1936年、1941年の3度にわたって映画化されています。
中でも、1941年の作品(ジョン・ヒューストン監督・脚本、ハンフリー・ボガート主演)が大ヒットしました。
ハンフリー・ボガートの出世作です。
最後に
翻訳家、ミステリ評論家であり、ハードボイルド研究の第一人者でもあった小鷹信光さんという方がいます。
(テレビドラマ『探偵物語』の原案者でもあります)
正確に言うと、いましたと言うべきでしょうか。(2015年12月に逝去)
ハードボイルドファンに限らず、ミステリー小説ファンならどこかで名前を目にしたことがあると思います。
その小鷹さんが『バイブル』と呼んではばからなかったのが、ダシール・ハメットの『マルタの鷹』でした。
ですから、ハードボイルドファンを自認する方は、それだけでも一読する価値はあると思います。
本記事を参考にして、ハードボイルドの元祖、ダシール・ハメットの『マルタの鷹』並びに、彼の世界を存分にお楽しみください。
【関連記事】
LEAVE A REPLY