ウェブ狼 第三十八話 ~危機~
電柱がゆっくり傾いだ。
ミソジはそれを振り仰いだ。
こちらに向かって、倒れてくる。
「よけろ!」
誰かが叫んだ。
横たわったままの杉を移動させるのは、不可能だった。
ミソジは咄嗟に覆いかぶさった。
束の間、時が止まった、ように感じられた。
衝突音が耳朶を打つ。
が、自分の身体に何かが当たった感覚はなかった。
「おい、ミソジ」
声が聞こえた。
一瞬、それが遠くからのように感じられた。
ミソジは身体を起こそうとした。
「大丈夫か?」
杉が言った。
「ああ」
身体は問題なく動いた。
痛みもない。
電柱は、一メートルも離れていないところに倒れていた。
ミソジはそれを少しの間、見つめ、首を振った。
「俺のこと、そんなに好きだったのか」
杉が横たわったまま身じろぎしながら言った。
「どあほ。たまたまや」
ミソジは立ち上がって、杉に手を伸ばした。
「立てるか?」
「ああ」
杉が手をつかみ、ふらつきながらも何とか立ち上がった。
「簡単に折れるんだな、電柱って」
「感心してる場合ちゃうで」
ミソジは言いながら、辺りを見回した。
「野次馬が多いな」
少なくとも二十人は集まっていた。
しかも、そのうちの半数以上は、立ち去る気配がなかった。
サイレンの音が近づいていた。
「警察だな、多分」
杉が首の後ろ辺りを押さえながら、しかめっ面で言った。
「ああ」
「面倒だな」
「俺が残ろうか?」
「いや、運転手は俺だと、こいつらが知ってる」
杉が野次馬連中に向けて顎をしゃくった。
「身代わりは無理か」
「そういうことだ」
「あんたは警察から追われている身やで」
「ここは神戸だ」
「正確には神戸ちゃう。その近くやな」
「細かい奴だな」
「で、神戸やったら何が違うねん」
「管轄の問題だ」
「あんたの情報がこっちまで回ってへん、と?」
「あの事件が警察庁広域重要指定事件にでも指定されない限り、な」
「少なくとも末端の警察官は知らない。そういうことか?」
「ああ」
杉が頷いた。
サイレンを切ったパトカーが目の前をゆっくり通り過ぎ、やや離れたところで停まった。
制服の警察官が助手席側から降りた。
「俺は一足早く大阪に帰るで。警察に色々聞かれるのが嫌やし」
「後ろ暗いところでもあるのか、ミソジ?」
「それはあんたやろ?」
ミソジは身を翻して、歩き出した。
「迎えを寄越せよ」
「連絡する」
ミソジは肩越しに言って、その場を離れた。
『あ、先輩。今、どこですか?』
「今、大阪に向かってる。タクシーの中」
『あたしはまだミナミ近辺にいますよ』
「何してたんや?」
『美容室です。堀江の』
「そこで何を?」
『何って、髪を切ってるんですよ。あとカラーも』
「ああ、そうやな」
『せっかくこっちまで来ましたからね。ついでに』
「あと、20分くらいで行ける」
『どこに、ですか?』
「アメ村に。車を停めた駐車場あるやろ?」
『大丈夫なんですか? 警察とか』
「俺がそこに停めたことを警察は知らへん」
『そうなんですか?』
「雨田とかいう刑事は、俺があの風俗ビルの屋上に来たから気づいたんや」
『なるほど』
「つまり、俺が車をどこに停めたかは知らへんはず」
『そうですね。それにしても…』
「なんや?」
『先輩、お尋ね者になっちゃいましたね』
「そうとは限らへん」
『刑事さんは、そんな感じのこと言ってましたよ』
「とにかくそっちに行くよ。待っててくれ」
『あ、ちょっとせんぱ‥‥』
スポンサーリンク
足を踏み入れる直前に気づいた。
狭い露天の駐車場に、嫌な空気が流れていた。
数人の人影が、そこにあった。
「よお」
暗がりに、バールを持った男がいた。
確か、ノブという名前だった。
「また会ったな」
ノブが、もたれていた壁から一歩前に踏み出した。
「何の用や?」
そう言った自分の声がかすれたことに、ミソジは気づいた。
「おい」
ノブが横を向いて言った。
ミソジの車と、その手前に駐車されたワンボックスカーの間から、瞳が出てきた。
真後ろにぴったりと、チンピラ風の若い男がついている。
「先輩…」
瞳が言った。
「先輩? 御堂筋先輩、ってか」
ノブがそう言って、にやついた。
「こいつに何をしたんや」
ミソジは腹の底からこみ上げる怒りを抑えて言った。
「まだ、何も。これからやな」
ノブが下卑た笑みを浮かべた。
「その子を離せ」
「めっちゃカッコええやん! 『その子を離せ』やって。ヒーローか、おまえ」
男が言うと、周りの連中が笑い声を上げた。
「あんまり、いきりなや。弱いねんから、御堂筋先輩?」
「で、用件はなんや? 何しに来たんや」
ミソジは言った。
「オジキが、あの件から手を引けって言うたよな」
「せやから、何やねん」
「言われたこと守らへんかったら、どないなるか、わかるよな?」
「俺は何もしてへん」
「嘘ついたらあかんで、御堂筋先輩」
ノブが言いながら、バールを瞳の太もも辺りにこすりつけた。
瞳が身体をよじって避けようとする。
しかし、別の男が瞳の肩を抱いているせいで、動けなかった。
「おまえが何を知ってるいうねん」
ミソジは言った。
「俺は何でも知ってる。おまえが神戸に行ってたことも、な」
「行ってへんわ」
驚きのあまり、咄嗟に嘘が口を突いて出た。
「また嘘ついた」
ノブが目を細めて、バールを瞳の腹に押しつける。
力が強まったせいか、瞳が苦しそうな表情になった。
「どこから壊そっかな」
「おい、待て」
「待ってください、の間違いちゃうか? 御堂筋先輩?」
「待って、ください」
「な・ん・で・す・か? 御堂筋先輩?」
ノブが妙な抑揚をつけて言った。
「わかった。手を引く。俺はもう動かへん」
ミソジはそう言って、ため息をついた。
「いやいや、口約束だけやと困りまっさ」
「どうしたらええねん」
「利き手はどっちや、御堂筋先輩?」
ノブがにやつきながら言った。
「は?」
「お箸を持つ手はどっちやと訊いてんねん」
「…右や」
「ほんなら、一旦、右手もらっときましょか」
ノブがバールを瞳の身体から離し、肩に担いだ。
「おい」
ノブの声と共に、二人の男がこちらへ向かって来る。
「なんや」
ミソジは後ずさりした。
が、身体の大きな二人の男に両腕をつかまれ、駐車場の隅に移動させられた。
「もうちょい右や。そうそう、その辺」
そう指示するノブの視線の先には、防犯カメラがあった。
死角を探していることに、ミソジは気づいた。
「よっしゃ、そこでええ」
ノブが満足そうに言った。
と、ミソジは右にいた男にから足払いをかけられた。
バランスを崩し、無様に倒れる。
「ぐっ」
上から押さえこまれ、一瞬、息が止まった。
右手をつかまれた。
腕を頭方向に伸ばした状態で、固定される。
ミソジはもがきながら顔を上げた。
ノブの足が近づいていた。
LEAVE A REPLY