日本の国技 相撲の歴史、成り立ちをざっと調べてみた
近年、八百長事件や野球賭博問題で一時的に人気が離れたように見えた大相撲ですが、琴奨菊や稀勢の里など日本人大関の活躍もあって、次第に息を吹き返してきたように思えます。
また、先場所(2016年九月場所)、大関豪栄道が全勝優勝し、綱取りの道も見えてきたことで、久しぶりに日本人横綱の誕生かという期待も膨らんできました。
今回は、そんな大相撲の歴史を振り返る記事です。
目次
相撲は日本の国技だが、唯一無二ではない
『日本の国技』と言われる相撲ですが、今のような土俵上で行なわれる形式が独自のものであることから、そう呼ばれています。
しかし、人が組み合って力比べをするという意味では、ある意味人間の本能的なものですから、『相撲のようなもの』は世界史上の歴史と共にあるものです。
たとえば、今から五千年ほど前にあったバビロニア(今のイランあたり)という国の遺跡からは、締め込みをした男が四つに組んでいる青銅の人形が出土しています。
また、エジプトのベニ・ハッサン横穴の壁面には相撲をとっている図があります。
東洋に目を向けても同じことで、法華経安楽行品(あんらくぎょうほん)には『相撲』の文字がありますし、涅槃経(ねはんぎょう)には『力士』と書かれています。
更に、中国吉林省鴨緑江中流右岸の通溝にある高句麗の古墳の壁画にも、相撲の図があるそうです。
各国の相撲
- 沖縄本島の沖縄角力(シマ)
- モンゴルのブフ
- 中国のシュアイジャオ
- 朝鮮半島のシルム
- トルコのヤールギュレシ
- セネガルのラム
相撲の語源
『すもう』を表わす『相撲』の文字は仏教から、『角力』や『角觝』の文字は漢籍に由来します。
日本語としては、
と訛っていったとされています。
そして、力比べとしての『相撲』に、『すまふ』という日本語をあてて理解したというのが定説です。
また、『すまひ』は『相舞』と記されることもあったようです。
このことから、元々の『すまひ』は力比べではなく、神様に捧げる芸能から来たのではないかという説もあります。
実際、愛媛県の大山祇(おおやまつみ)神社では初夏の御田植祭で、目に見えぬ精霊を相手に相撲をとる神事が行われるなど、宗教的な意味もあります。
今でも、神様に舞いを献上するといったことは行われていることから、あながち間違いでもないような気がします。
個人的には両方の側面があったとする方が、何となく頷ける気がします。
相撲の勝者には、神様の恩寵と加護があるという信仰がありますし、ね。
日本における相撲の起源、発祥
日本のおける相撲の最古の記録は、『古事記』にあります。
神代の相撲
『古事記』によると、いわゆる神代に、建御雷神(たけみかづちのかみ)と建御名方神(たけみなかたのかみ)が出雲の伊那佐の小浜(おばま)で力くらべしたという記録が残っています。
互いに手を取り合い、投げ合う形であることが、その描写からわかり、相撲をとることを『手合い』や『手乞い』と呼んだということに、それが伝わっています。
また、この一件が大和王朝による出雲の支配、有名な国譲りにつながっていることにも、とても意味があるように思えます。
神前で相撲をとり、その勝敗で神の意志を推し量るという、占いの側面を持っていることを感じさせます。
古代(弥生時代)の相撲
神ではなく、人間としての相撲の起源は、『日本書紀』にその記述がある、野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹶速(たいまのけはや)です。
(この二人は相撲の祖神として祀られています)
このとき(垂仁天皇七年七月七日:紀元前23年という伝承)は、互いに蹴り合った末に、野見宿禰が當麻蹶速を蹴倒し、腰の骨を踏み折ったという結果が残っています。
今の相撲とは違い、より実戦的な格闘技に近いものがあったようですね。
ちなみに、この野見宿禰は、土器の製作を生業として大和朝廷に仕えた土師(はじ)氏の祖とされ、この一族からは有名な菅原道真を輩出した菅原家が出ています。
その菅原家から更に分かれた五条家は、代々朝廷主催の相撲節会において『相撲司』(すもうのつかさ)としてその運営を取り仕切ったそうです。
また、『力士』という漢字が初めて登場したのが、古事記の垂仁記であり、『ちからひ』もしくは『すまひひと』と訓読みしたようです。
古墳時代の相撲
『日本書紀』によれば、雄略天皇が采女(うねめ:身辺の雑事をする女官)たちを集めて、犢鼻(とうさぎ)と呼ばれた回しをさせて相撲をとらせたという記録があります。
またこのとき初めて『相撲』という文字が記録にでてきたものとされています。
奈良時代の相撲
【相撲節会】
相撲節会(すもうせちえ)の起源は、聖武天皇の天平6(734)年七月七日に節会相撲が催されたことにあります。
このことにより、いわゆる節会相撲は、大体、七夕の頃に行なわれるようになりました。
とはいえ、この節会相撲は中国から七夕という年中行事を受け入れる前から行われていたようです。
ちょうど七月十五日という満月の日を焦点にして先祖の霊をまつることが、仏教受容以前から伝承していたようです。
その日に合わせて、上弦の七日ころ、口開きとして支度にかかる時期に相撲をとるという行事が催されたという話が伝わっています。
スポンサーリンク
平安時代の相撲
『大鏡』によると、宇多天皇が在原業平と相撲をとって投げられ、ぶつかった高欄を折ってしまったという記述がみられます。
院政時代には、堀河天皇が世更けてから、御殿の南面でこっそり臣下に相撲をとらせたと言われています。
これが天覧相撲、相撲の節会でした。
それが律令体制の元で、整備されてきます。
しかし、その相撲節会も高倉天皇の承安4(1174)年の七月二十五日に行われたのが最後で廃絶しました。
鎌倉時代の相撲
国営とでもいうべき節会相撲は、律令制と密接な関係を持っていました。
それがなくなった鎌倉時代は、民間で行われていた野相撲や宮相撲が武士たちに取り入れられるようになります。
当時の戦闘は組み打ちを主としたものだから、相撲をとるということは武技を練ることと等しかったわけですね。
鎌倉幕府の御家人たちは、神社の祭日などに好んで相撲の会を催し、将軍家もそれをしばしば上覧したようです。
室町時代の相撲
鎌倉時代の流れを受けて、室町初期にも相撲をとる武士は多かったようです。
『太平記』によると、播磨の国の住人、妻鹿(めが)三郎長宗は、六十余州を巡回して取って歩いたが、これにかなう者はいなかったとされています。
戦国期の相撲
野相撲・宮相撲・節会相撲には、土俵というものがありませんでした。
ようやくその形ができ始めたのが、戦国時代の末あたりのようです。
織田信長が、元亀元(1570)年三月三日には常楽寺で、天正六(1578)年には近江の国の相撲取り300人集めて相撲の会を催したという記録が残っています。
野相撲ではいまだ土俵はなかったものの、職業力士の興行には土俵が作られていました。
『角力旧記』という本によると、土俵は天正年間から次第に築かれるようになったそうです。
また、行司ということばも使われ始めていますが、『行事』と書くことが多かったようです。
スポンサーリンク
江戸時代の相撲
江戸幕府や、奉行所は勧進相撲(※)に対して、統制を強め、届け出を出すよう徹底していたようです。
つまり、『御免を蒙』った状態でなければ興行ができなかったそうです。
その影響で現代でも、番付の中央に大きく『蒙御免』と書いてあったり、相撲場の近くに『御免札』を立てることがあったりと、当時の名残があります。
※勧進・・・寺院の建立や修繕などのために、信者や有志者に説き、その費用を奉納させること
勧進相撲は興行を打つ名目として使われていたという側面がある
勧進相撲は、明石志賀之助という人が寛永元(1624)年に、江戸の四谷塩町で興行したことに始まるとされます。
しかし、勧進相撲自体はそれ以前に成立しているので、場所と名前がはっきりわかる形においては最初ということでしょう。
また、江戸幕府は相撲興行において喧嘩騒ぎが絶えなかったことから、何度も勧進相撲の禁令を発しています。
そして、初期の番付制度もこのころに始まったとされています。
江戸、京都、大坂で相撲が盛んになり、当初は大坂での興行が最も盛り上がっていたようです。
その後、江戸でも勧進相撲の許可が出るようになり、勢いを増していきます。
宝暦年間(1751~1764)以降、江戸相撲では、三月、十月を定期の場所とし、多少の時期のズレはあったものの、本場所を年二回と定めます。
その他にも、江戸市中で勧進相撲を行なっていました。
相撲協会の前身である『相撲会所』もこの頃、成立し、それに伴いしきたりが整えられていきます。
また、19世吉田追風(※)が、『横綱』を考案し、寛政元(1789)年に、谷風梶之助・小野川喜三郎の両名に免許しています。
※吉田追風・・・相撲の宗家、家元である吉田司家の名跡
相撲は明治期になくなる可能性があった
江戸、京都、大坂の三都で特に栄えていた相撲ですが、明治初めの東京では相撲が無用の長物だとする声がでてきました。
これは東京府が出した一連の裸体禁止令と関係していました。
「裸体は外国人に見られたとき、みっともなく、国の体面を汚す」というのが、その布達の根拠でした。
明治五(1872)年十一月八日に違式詿違条例なるものを出し、ふんどし一丁、上半身裸、下半身裸を取り締まりました。
この影響で、『相撲だけ裸体が許されているのはいかがなものか』という論が本格化しました。
また、更に、『野蛮であり、文明開化を妨げる』ということから、禁止令を出すようにという強硬な意見もあったようです。
それに対し、相撲会所と東京相撲は力士消防組(消防別手組)を作り、相撲が有用であることを示すなど、生き残りを図ります。
結果的に、明治十一(1878)年二月五日に、東京警視庁は川路利良大警視の名で、鑑札制を柱とする『角觝並(すもうらなびに)行司取締規則』を布達しました。
これにより、警視庁が相撲関係者に鑑札を発行し、管理下に置くことが決まりました。
つまり、東京警視庁に公認されたということです。
このとき禁止されていたら、相撲は今のような形で残っていなかったかもしれませんね。
その後の東京相撲
その後は、明治期に七回の天覧相撲が行われるなどの影響もあり、東京相撲は人気を回復しました。
また、明治四十二(1909)年には国技館を竣工させるなどして、その人気を不動のものにしていくことになります。
(国技館という命名は江見水陰と尾車文五郎の合作)
国技館と命名されたことで、『相撲が唯一の国技』という認識が一般に浸透しました。
皇室との関わりが深い(奈良時代に始まった宮中定例儀式の相撲節会が根拠)こともあり、そういう認識が広まったということです。
最後に
少し長くなりましたので、江戸時代以降はやや端折った形になりました。
江戸時代くらいから資料が増え、情報の取捨選択が難しくなるんですよね。(ぼやき)
別の機会に、その辺りを詳しく紹介できたら、と思っています。
ちなみに、僕の小学校時代のヒーローは最近亡くなった千代の富士関(元横綱、前九重親方)と原辰徳選手(巨人軍前監督)でした。
相撲好きだった祖母の家では夕方になると相撲を観て、その後、夜七時からは巨人戦を見るというぜいたくな時間を過ごしていました。
今、地上波でナイター放送はありませんから、昭和ならではの光景ですね。
また、僕は小学校の頃、仲の良い友達と、よく相撲をとっていました。
得意技は『小手投げ』でした。
当時から小手先の技に走る傾向が…
とオヤジギャクで自虐を挟んだところで、お別れです。
ご覧いただき、ありがとうございました。
COMMENTS & TRACKBACKS
- Comments ( 2 )
- Trackbacks ( 1 )
-
[…] ⇒ 日本の国技 相撲の歴史、成り立ちをざっと調べてみた […]
日本に国技は存在しないんやで。
稀勢の里さん、コメントありがとうございます。
はい、おっしゃる通り、日本では法令で定められた【国技】が存在しません。
ですが、一般にこれだけ浸透していると、事実上の国技というべきかな、と思いまして、タイトルにそう記しました。
『国技館と命名されたことで、『相撲が唯一の国技』という認識が一般に浸透しました。』と本文に書いたのも、そういうニュアンスですね。
あ、遅くなりましたが、初優勝おめでとうございます!