【論語】孔子が語る『生き方』について 7つの言葉 +α
たまに論語を読み返すと、昔は字面だけ読んで腑に落ちていなかったことが、今になって理解できます。
これは論語に限らず、昔から読み継がれている本(古典)の良い点ですよね。
人は年齢を重ねるごとに状況が変わり、立場が変わります。
そして、その時々で、見えているものや感じていることが違ってきます。
だからこそ、読み返すごとに新たな発見があるように感じられるんですね。
ですから、本を読むことで自分の心と向き合っているとも言えます。
写し鏡という言葉がありますけど、まさにその通りです。
そのおかげで、自分が今、何を念頭に置いて生活しているのか、どんな問題点を抱えているのかも見えてきます。
そうやって、いつまでも自分の手元に置いておき、折に触れて読み返したい本こそが、自分にとっての良書だと僕は思います。
前置きが長くなりました。
では、どうぞ。
目次
本当に大切なものはどこにあるのか
子曰く、朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。
「里仁 第四」より
【読み】
しいわく、あしたにみちをきかば、ゆうべにしすともかなり。
【白文】
子曰、朝聞道、夕死可矣。
【現代語訳】
老先生の教え。朝に「道」を学べば、夕べに死んでも、それで十分だ。
【注釈】
「道」は、これを読む人によって受け取り方が違う。
「人の世の真実」、「人間として大切なもの」、「生きてあることの意味」、あるいは「死の覚悟」など読者の心に響くもの。
【僕の勝手な解釈】
「道」という言葉を各人で当てはめて読みなさいということのようです。
『それを学ぶことができたら、死んでもいい』というくらいですから、人生をかけて探し続けるべきものだと僕は解釈しました。
それがどこにあるのか、どうやれば見つけられるのか。
探し続けることが人生の目的の一つであるような気がしています。
それが何なのか、あなたも是非考えてみてください。
陥りがちな状態を回避せよ
子 四を絶つ。意なる毋れ、必なる毋れ、固なる毋れ、我なる毋れ、と。
「子罕 第九」より
【読み】
し しをたつ。いなるなかれ、ひつなるなかれ、こなるなかれ、がなるなかれ、と。
【白文】
子絶四。毋意、毋必、毋固、毋我。
【現代語訳】
老先生は次の四者を絶たれた。己の意ばかりになるな、決めたことにこだわるな、執着するな、利己的になるな、と。
【僕の勝手な解釈】
大体、この四つの状態に陥っているときは、個人的には(頭の中が)熱くなりすぎているときです。
他人の意見(や忠告)を一切聞き入れずに、突っ走ってしまう。
大体、良い結果は生みませんね。
ですから、定期的に「何かにこだわりすぎていないか」ということを、自身に問いかけるべきでしょう。
僕もたまに瞑想をして、自分と向き合うようにしています。
人格を磨いておこう
子曰く、徳 孤ならず、必ず鄰有り。
「里仁 第四」より
【読み】
しいわく、とく こならず、かならずとなりあり。
【白文】
子曰、德不孤、必有鄰。
【現代語訳】
老先生の教え。人格のすぐれている人は、けっして独りではない。必ず(その人を慕ってそのまわりに)人が集まってくる。
【僕の勝手な解釈】
人は、独りではなかなか生きていけません。
むやみやたらと人を集める必要はないわけですが、自分を認めてくれる友達や仲間がいるに越したことはありません。
また、商売をされている方は、日ごろから人脈を築いておくべきですから、やはり人格を磨いておくべきでしょう。
では、人格者とはどういう人なんでしょう。
ヒントが次の項にあります。
人格者に近いのはこういう人
子曰く、剛・毅・木・訥は仁に近し。
「子路 第十三」より
【読み】
しいわくごう・き・ぼく・とつはじんにちかし。
【白文】
子曰、剛毅木訥近仁。
【現代語訳】
老先生の教え。
物欲に左右されないこと(剛)、志がくじけないで勇敢であること(毅)、質朴で飾り気のないこと(木)、(心に思っていることはしっかりしているのだが、うまく言い表せず)口下手であること、
(この四者は)それぞれ人の道に近い。
【僕の勝手な解釈】
三つ目まではすぐに納得できます。
しかし、口下手であることが良いことかと言われると、少し首をかしげざるを得ませんね。
これはどういうことかというと、孔子は別のところ(顔淵 第十二)でこう述べています。
『仁者はその言うや、訒し』(じんしゃはそのいうや、かたし)。
「仁者(人格者)は、その発言が慎重である」という意味です。
よりわかりやすくすると、『人格者は言葉に責任を持つ人なので、慎重になるものだ』ということでしょう。
しかし、そうなると、本文訳の『口下手であること』とは少し違うように思えます。
疑問に思った方は、ここで本文に立ち返ってください。
孔子は『訥は仁に近し』と述べていて、『仁』そのものであるとは言っていないんですね。
軽々しく言葉を飾り立てて喋る人よりも、しっかりと考えているが口下手の人の方が人格者に近いんですよ、と言っているんですね。
ちなみに、前者の人(軽々しく言葉を飾り立てて喋る人)については、別のところでも孔子は述べています。
次の項をご覧ください。
こういう人は人格者とは程遠い
子曰く、巧言令色鮮なし仁。
「学而 第一」
【読み】
しいわく、こうげんれいしょく、すくなしじん。
【白文】
子曰、巧言令色、鮮矣仁。
【現代語訳】
老先生の教え。(他人に対して人当たりはよく)ことばを巧みに飾りたてたり、外見を善人らしく装うのは、
(実は自分のためというのが本心であり)、『仁』すなわち他者を愛する気持ちは少ない。
【注釈】
巧言令色とは『言を巧みにし色を令(よ)くするは』とも読む。
【僕の勝手な解釈】
21世紀の日本では「男は黙って~」のような(昭和的な)価値観はもはや古いものとされています。
しかし、それは『必要なことはしっかり説明せよ』という意味であり、何でもかんでも喋ればいいということではないですよね。
ですから、その見極めはしっかりとする必要があります。
詐欺師とまで言ってしまうのは少し気が引けますが、口が上手すぎる人には、要注意ということでしょうか。
イギリスの思想家トーマス・カーライルが語った「沈黙は金、雄弁は銀」という言葉にも通じるところがあるように思えます。
(といっても、トーマス・カーライルは19世紀の思想家なので、孔子よりも随分と後になりますが)
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客観的な視線を忘れずに
子曰く、過ちて改めず、是を過ちと謂う。
「衛霊公 第十五」
【読み】
しいわく、あやまちてあらためず、これをあやまちという。
【白文】
子曰、過而不改、是謂過矣。
【現代語訳】
老先生の教え。過ちを犯したのに改めない。これが真の過ちである
【僕の勝手な解釈】
これだけを見ると、至極当然な言葉です。
しかし、本当にできている(過ちを改めている)でしょうか。
『わかっていることや知っていること』と『できること』との間には大きな隔たりがあります。
そもそも過ちを過ちだと思っていないということがあるかもしれません。
過ちは『間違い』だけでなく『失敗』という意味もあります。
この記事の二番目に挙げた言葉の中に『必なる毋れ、固なる毋れ』(決めたことにこだわるな、執着するな)とあります。
傍から見れば、明らかに失敗しているのに、それを認めることができず、自分が決めたことに固執しているときがありませんか。
常に、とは言いませんが、定期的に自分と自分がやっていることを客観的に見る視線が大事だと思います。
そうすれば、なぜ上手くいかないのか、どうして失敗したのか、という考えが生まれ、改善点が見えてきます。
ビジネスの現場においては、PDCAなんて言葉をよく使いますが、それを上手く回せるようになるはずです。
自戒を込めて。
物事の本質を捉えよ
子曰く、衆之を悪むも、必ず察し、衆之を好むも、必ず察せよ。
「衛霊公 第十五」
【読み】
しいわく、しゅうこれをにくむも、かならずさっし、しゅうこれをこのむも、かならずさっせよ。
【白文】
子曰、衆惡之、必察焉、衆好之、必察焉。
【現代語訳】
老先生の教え。世の多くの人が悪く言うときも、善く言うときも、
(すぐそれを信じずに)必ずその底まで見通すことだ。(単純に信ずるな。)
【僕の勝手な解釈】
これは正に現代の状況を言い表しているように思えます。
大手メディアが論調を作り、それに乗せられた大衆が一方的な意見を述べる。
そして、そのフィードバックを受けたメディアがさらに煽る。
特にインターネットの世界では、この傾向が強いように思えます。
表面に現れた事象に対する浅はかな言説に付和雷同することなく、本当はどういうことなのかということを自分の頭で考えるようにしないといけませんね。
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最後に
2500年も前に生きた孔子の言葉をまとめた論語に対して、「本人が書いたものではない」とか「宋時代に入って急に持ち上げられるようになった」というように批判的な言説もあります。
また、孔子本人に対しても、「大した功績がないのに聖人君子にまつりあげられた」というようなことも言われます。
しかし、現代を生きる我々にとって、そんなことはどうでもいいことです。
2000年以上も読み継がれた古典には、普遍的なものがあるはずです。
そこから何を得られるかということが大事なのです。
冒頭でも述べましたが、書物は写し鏡です。
自分と対話をするという観点で読んでみるのもいいかもしれません。
最後に、僕が昔から好きな、生き方に関する孔子の言葉をどうぞ。
何人(なんぴと)たりとも僕の志は奪えない
子、曰く、三軍ありとて、帥を奪う可し。匹夫とて、志を奪う可からず。
「子罕 第九」より
【読み】
しいわく、さんぐんありとて、すいをうばうべし、ひっぷとて、こころざしをうばうべからず。
【白文】
子曰、三軍、可奪帥也。匹夫、不可奪志也。
【現代語訳】
老先生の教え。三軍の多数の兵がいても、(心が一つでなければ)その司令官を奪い捕らえることができる。しかし、一人の男といえども、(心が堅ければ)その志を奪うことはできない。
【注釈】
「匹夫」は一般人の男性。
男が一度、志を打ち立てたのなら、なんぴとたりとも、それを奪うことはできません。
そして、奪わせてはなりません。
他人だけではなく、時間が、状況が、それ(志)を奪おうとしようとも絶対に諦めず、石にかじりついてもそれを成し遂げる。
その気持ちが大事です。
そして、そう堅く信じることができないのであれば、そもそも志を打ち立てるべきではないと僕は思います。
中途半端な志は人生を狂わせますから。
あ、つい熱くなりました。すみません。
※原文は『匹夫(一般人の男性)』となっていますが、別に男性だけではなく、女性でもそうだと思います。
では、今日も明日も明後日も、志と共に精一杯生きていきましょう!!
See you~!!
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