ウェブ狼 第八話 ~調査、素顔~
帰宅時間。
すっかり暗くなった駅までの道をミソジは足早に歩いていた。
早く帰って息子の顔が見たい。
そう思っていた。
「トシちゃん」
不意に、背後から話しかけられた。
振り返らずとも、その弱々しい声でわかった。
「タイゾウ、いつも言うてるよな。背後からいきなり話しかけるなって」
ミソジは歩きながら言った。
「いや、俺は別に。その、だって、トシちゃんを見つけたから、普通に、その…」
タイゾウが早口でしゃべりながら肩を並べるようにして隣りを歩く。
「落ち着いて話せ。それから、その『トシちゃん』はやめろ。もう三十歳やねんぞ、お互いに」
「でも、だって、学生の頃からそう呼んで…。ほら、転校してきたばっかりの頃にトシちゃんが助けてくれて…」
「助けたんちゃう。オマエも含めたあいつらが邪魔やったから、『どけ』言うて追い払っただけや」
「ちがうよ、あれはトシちゃんが…」
「タイゾウ」
ミソジは立ち止まって言った。
タイゾウも慌てて足を止める。
「なんや、それ。どないしたんや」
ミソジは言った。
タイゾウはチノパンにフレッドペリーのポロシャツ、ナイキのスニーカーという普段着だった。
一見すると大学生のような服装だが、白い眼帯をし、左の前腕部に包帯を巻いていた。
「いや、これはその、事務所の階段から落ちて。ほら、俺、おっちょこちょいだからさ」
「あの雑居ビルは階段が急だからな。エレベーター全然けぇへんし」
言いながらミソジは歩道を逸れて、ビルの敷地に入った。
20階近くある大きなオフィスビルのエントランス近くのスペースだ。
夜遅いからか照明が半分以上消えているものの、街灯に照らされているところより明るい。
タイゾウがおずおずといった様子でついてきた。
「ほんで、調査は終わったんか」
「あ、うん、そう。トシちゃんに頼まれてたやつ…。あれ?」
タイゾウが肩に斜め掛けしたメッセンジャーバッグの中をかき回している。
財布、ノートパソコン、電源コード、紙片、封筒、ペットボトルが次々に見えた。
「タイゾウ、ええから落ち着いて探せ」
「え、うん。でも、ここに入れたはず…。あ、あった」
タイゾウがUSBを差し出してきた。
「おう、ご苦労さん」
ミソジはそれを受け取った。
「トシちゃん」
「ん?」
「また、今度ご飯行こう。奥さんも一緒に」
タイゾウがぎこちなく笑った。
「息子の手がかからんようになったらな」
そう言って、ミソジは再び駅への道を歩き始めた。
上本町の自宅に戻ると、息子は既に寝ていた。
日付が変わろうとしている頃だ。
無理もなかった。
柔らかい頬にそっと指先だけ触れ、ミソジは自室へ入った。
私物のノートパソコンを起動し、USBを差し込む。
エクセルでファイルを開いた。
【 酒井美里についての調査結果 】
酒井美里
1954(昭和29)年6月8日生まれ、現在61歳 天王星人(+)
父はカワキタホールディングス株式会社常務取締役だった酒井義実。
裕福な家庭に生まれ育つ。
大阪女学院中学、高校時代は成績が良く、関西でもトップクラスの国立大学(京都大学か?)への進学を勧められるが、父の意向で神戸女学院大学文学部英文学科へ。
大学卒業後、就職することなく、家事手伝い(周囲には花嫁修業と称していた)を経て24歳のとき、見合い結婚。
相手は藤田則夫(元、近畿電力取締役、京都大学文学部卒:日本史学専修)。
1男1女をもうけるも1990年、36歳のときに離婚。
(親権は父、則夫。生活基盤も父の家。娘8歳、息子3歳のとき。二人は継母に育てられる)
離婚した当時、父の援助で建てた家(現在も住んでいる箕面市の家の近所)に住んでいたので、則夫が大阪市内のマンションに移り住むということで決着。
それ以来、美里はずっと箕面市に住んでいる。
離婚時に慰謝料は互いに要求せず。
離婚原因は性格の不一致とされているが、互いに愛人がいたという噂。
(現に、則夫は離婚後半年も経たずに今の妻と入籍している)
美里の主な収入源は株式投資。
NTTが東証1部に上場した1987(昭和62)年頃、投資を始める。
財テクブームに乗り、資産を伸ばす。
1991年から始まったと言われるバブル崩壊時には離婚直後で何かと物入りだったこともあり(雑誌での本人談)、株を全て売った後だった。
その後、1990年代後半からのITバブルで大幅に資産を増やす。
2008年のリーマンショックではそれなりの損害を被ったらしいが、数年後、政権交代に伴って訪れた株価高に便乗し、再び大きく資産を増やした模様。
関西の経済界にも顔が広く、関西経済3団体(関西経済同友会、関西経済連合会、大阪商工会議所)に知人が多数おり、しばしば自宅でパーティーを開くなど社交的な一面がある。
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ミソジはそこまで読んで書類から目を離した。
その後はかなり個人的なことが書かれているようだ。
必要に応じて読むことにして、ファイルを閉じる。
ミソジは酒井美里に面会した後、すぐに彼女の調査を『タイゾウ』こと大山泰造に頼んでいた。
タイゾウは、なかなか調査結果を提出してこなかった。
先払いで報酬を支払ったのに、当初の期限を過ぎても連絡を寄越さないタイゾウに苛立ち、電話口で怒鳴りつけたのが先週末のことだった。
問い詰めると、久しぶりに収入があったからといって何もせずに家に引きこもっていたらしい。
そのくせ浮気調査以外は初めてだからという言い訳をするので、散々脅しつけてやった。
新田瞳に聞かれていたのは、その電話での会話だった。
タイゾウに調査を頼んだのは開業直後である彼の助けになればいいと思ったからだ。
しかし、それよりもミソジ自身が酒井美里を調べなければ気が済まなかったということが大きい。
上がってきた調査結果報告を読んだ感想は、「悪くない」の一言だった。
酒井美里が想像以上に大物だったという印象だ。
ただの有閑夫人じゃなさそうだと感じた自分の直感は正しかった。
先ほど見たファイルの、酒井美里の親しい友人の欄に、新聞やビジネス系の雑誌でよく見る名前がいくつも並んでいたのを思い出す。
上手くやれば、その次の仕事にもつながるかもしれない。
そう思った。
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