ウェブ狼 第二十八話 ~追跡~
「……い、おい、あんた」
遠くで声が聞こえた。
光が見えた。
右頬に、堅いものが当たっている。
それがアスファルトだと気づくのに、少し時間がかかった。
すえたような刺激臭が鼻をついた。
「大丈夫か、あんた」
その声の主はすぐ傍にいた。
こちらを見下ろしている。
年齢不詳だが、50歳は超えているように見えた。
陽に灼けた褐色の肌に、深いシワが刻まれた顔、ぼさぼさの髪の毛、着古して変色したTシャツとジャージのズボン。
「奴らは?」
ミソジは顔をそむけるようにして、辺りを窺った。
「いや、誰もおらんで」
「あんた、俺が奴らに…」
「ん?」
「いや、何でもない」
「まあ、大丈夫なら良かった。ほな」
男は破顔し、傍にある自転車に跨った。
見るからに古いそれの前と後ろには、空き缶をいっぱいに詰めたビニール袋が積まれていた。
意識がはっきりしてくると、身体の方々が痛むことに気づいた。
身体を起こそうとしたとき、首筋に鋭い痛みが走った。
他にも、耐え難いというほどでもないが、顔の額から右目にかけての部分の痛みがひどかった。
ミソジはそれをこらえながら、運転席側の後輪を背にして座った。
しばらくして立ちあがろうとしてふらつき、再び座り込んだ。
鈍い頭痛に襲われ、頭を押さえ、目を閉じる。
スライドショーを見せられているかのように、自分の記憶がまぶたの裏に浮かんだ。
迫って来る黒のハイエース、慌てて曲がった交差点、行く道を塞いだ白のセダン。
それから、四人の男たちに囲まれて暴行を受けたこと場面も。
『オジキ』と呼ばれていた黒いスーツの男と、バールを持ったチンピラの顔ははっきりと思い出すことができた。
二度と会いたくはないが、次に顔を合わせても判別できるだろう。
そう思った。
クラクション。
道のど真ん中を占拠しているマークⅡの背後に、白い軽トラが迫って来ていた。
ミソジは痛む身体に何とか折り合いをつけて立ち上がった。
軽トラに向かって、手を挙げて運転席に乗り込み、エンジンをかけて車を端に寄せた。
ミソジは近くにあった大きなビルのシャッターの前に座っていた。
頭を打ったせいもあったが、それよりも夜通し駆け回ったせいで意識が朦朧としていた。
ブレーキ音が耳朶を打った。
足音が近づいてくる。
「先輩」
聞き覚えのある声に、顔を上げる。
新田瞳がそこにいた。
「すまんな、朝早くに呼び出して」
「女子には朝の用意が色々と……、って、どうしたんですか、先輩。その顔…」
瞳がミソジの顔を見て絶句した。
「話せば長くなるが、ちょっと転んでな」
「どこで転んだら、そんなことになるんですか。血が出てますよ」
瞳がハンカチを出し、顔に近づけてくる。
「ハンカチが汚れる」
ミソジは顔を背けた。
「汚れたものを拭くためにハンカチがあるんですよ、先輩」
「俺が汚れた存在みたいな言い方やな。あ、痛っ」
「軽口はそのくらいにしてください」
瞳が真剣な口調で言った。
「消毒した方が良さそうですね。ちょっと待っててください」
「いや、ええって」
「駄目です」
そう言って、瞳が小走りに駆けて行った。
数分で戻って来た瞳は、コンビニの袋を手に提げていた。
そこから消毒薬とガーゼ、医療用テープを取り出して、ミソジの額から目元にかけての怪我を処置する。
「しっかりしてるな」
「何がですか?」
「いや、テキパキと応急処置してくれるから」
「うちは父子家庭だったんで、何でも自分でしないといけなかったんです」
瞳がこともなげに言った。
そこに悲壮感のようなものはなかった。
「そうか」
「はい、できました。ちょっと見えにくいかもですけど、我慢してください」
「ああ、ありがとう」
ミソジは頷くように頭を下げた。
首がまだ痛んでいた。
「で、何があったんですか」
瞳がしゃがんだままこちらを見つめてくる。
怒っているような表情だった。
「話したら長くなるって言うたやろ」
「転んだんですよね」
「そうや」
「誰に、転がされたんです?」
「誰にも」
「嘘」
「何で、そう思う?」
「先輩の車、あんな中途半端なところに停めてますし、ただ転んだにしてはジャケットが汚れすぎです」
「鋭いな。そやねん、ただ転んだんとちゃう。めっちゃ転んだんや。わざわざ車を降りて…」
「もう、いいです」
瞳が途中で遮って、続ける
「それで、あたしをここに呼び出した理由を教えてください」
「杉成就の行き先を聞きたいねん、あのときの」
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「ここか?」
ミソジは車を徐行させながら、右斜め前に見えた雑居ビルを指差した。
「多分」
「あの日、杉が入って行ったビルで間違いないか」
「先輩と杉って人が別れたのが、さっき通った四つ角ですよね。手前の二階に二人で入ったバーがあって…」
「そう。千日前の手前で右に曲がってすぐの」
「で、あたしがつけていくと、あの人はまっすぐ来て道頓堀を渡って、左に曲がって…。ええと…」
「今、この車の進行方向はそのときと逆や。この道は一方通行やから」
「そうですよね。ですから、合ってるはずです。外観もこんな感じでした」
「よし」
ミソジはそのまま雑居ビルの前を通り過ぎ、左にあったコインパーキングに車を停めた。
早足で引き返す。
飲食店とラブホテルやいかがわしい店が建ち並ぶ通りは、アメ村の南端ということもあって普段は人通りが多い。
だが、早朝の今はさほどでもなかった。
目当ての雑居ビルの前に戻ってきた。
一階の奥まったところにエレベーターがあった。
その手前、左側の壁に、入居しているテナントのパネルが貼ってある。
ビルは六階建てらしかった。
「ビル一棟が丸々そういう店で占められてるみたいやな」
十八禁マークが描かれたパネルを見て、ミソジは言った。
一階から五階まで、それが貼られていた。
「でしょう?」
「杉がここに入ったのは間違いないんやんな?」
ミソジの問いかけに瞳が頷く。
「でも、何階に行ったかまでは見てない?」
「はい」
「とりあえず六階に行ってみよう」
「何でですか?」
「杉成就の事務所がここにあるかもしれへんからや」
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