【短編小説】浮気なん? 旦那と妻の(以下、略) ~第四話
気づいたら、そこにいた。
どれくらいの時間、そこに立っていたのかわからなかった。
あたしは目の前に広がる湖に、畏れを抱いていた。
だって、夜の湖って、なにかが潜んでいそうな気がして、不気味以外の何物でもないから。
ここは、旦那との思い出がある場所だった。
アウトドア好きの旦那が、こっちに引っ越してきて唯一、連れて行ってくれたところ。
昼間はここで釣りをして、夕方からはすぐ近くにある自然公園でバーベキューをして、テントに泊まった。
二年近く経つけど、そのときのことは今でも鮮明に思い出せる。
とても楽しいひとときだった。
車のライトが一瞬、あたしを照らしたのがわかった。
振り返ると、釣船屋の横にある駐車場の、あたしの車の横に別の車が停まったところだった。
見覚えのある車から、見覚えのある人影が降りてくる。
「サコ!」
束の間、考えた。
その言葉が何を意味するかわからなかったから。
それは、あたしの名前だった。
「紗子、何してる?」
「え?」
旦那の猫なで声に不快感を覚えながら、あたしは戸惑った。
「いいかい? そこを動くんじゃないよ」
「え? なに?」
「いいから。君は何もしなくていい。そこを動いちゃダメだ」
「イヤ! 来ないで」
あたしは一歩、後ずさった。
何かに足をとられてバランスを崩した。
え? どうしたの?
そう思って足元を見る。
いつの間にか、あたしは湖に膝下まで浸かっていた!
そうだ。
あたしは『向こう』に行こうとしてたんだった。
「紗子。大丈夫かい? 危ないから、そこを動いちゃダメだ」
旦那が、こちらに来ようとしている。
「こんなときだけ、そんな態度…」
「うん、僕が悪かったよ。悪かったと思ってる」
「全然、そんなこと思ってないでしょ?」
「いいや、心底思っているよ」
「嘘。あなたは世間体しか考えていないに決まってる。あたしは知ってる」
「そんなことはないよ。わかるよね?」
「わからない。全っ然わからない」
「そんな駄々っ子みたいなこと言わずに。ほら、こっちにおいで」
「イヤ! 来ないで」
あたしはそう言って、身を翻した。
湖の中心へ、『向こう』へ行こうとした。
「馬鹿なことはよしなさい」
旦那の声が聞こえた。
あたしは立ち止まらなかった。
足に絡みついてくる柔らかい土が、あたしを邪魔する。
クロックスのサンダルが脱げそうになった。
と、背後から足音が聞こえた。
水の中を急いで走る音。
「止まりなさい」
気づくと旦那がすぐ傍にいて、あたしの両肩をつかんだ。
「イヤ、触らないで」
あたしは、旦那の手を思い切り良く払った。
「危なっ」
旦那がバランスを崩して倒れそうになる。
すんでのところで体勢を立て直した。
「危ないだろ。ほら、一旦、向こうに戻ろう」
再び、肩をつかんでくる旦那。
あたしは無言で、旦那を突き飛ばした。
「あ」
短く言って、旦那が尻もちをついた。
みぞおちの下まで水に浸かっている。
「何するんだ」
旦那が声を荒げた。
あたしはそれを聞かなかったことにして、旦那が言う『向こう』とは逆方向へ足を踏み出した。
「止まりなさい」
慌てて立ち上がったらしい旦那が、あたしを引き留めようと腰をつかんだ。
「ヘンタイ! やめて!」
そう言ったあたしに気圧されたのか、旦那が手を離した。
「変態とはなんだ。僕は君の夫だぞ!」
旦那が大声を出しながら、またあたしをつかんでこようとする。
「やめて」
そう言いながら足を動かしたけど、捕まった。
羽交い絞めされるような格好になりながら、あたしは抵抗した。
「こらっ、暴れるのはやめなさい」
「いちいち命令しないで。そんなところがイヤなのよ」
そう言って振りほどこうとした。
その瞬間、旦那が足を滑らせた。
「ちょ…」
抵抗する間もなく、あたしは旦那に引きずられる形で倒れた。
顔が水に浸かる。
口の中に水が入ってきた。
焦ったせいで、それを飲み込んだ。
苦しい。
手足をばたつかせ、何とか起き上がった。
盛大に咳き込み、飲んだ水を吐く。
「ちょ、ちょっと、何すんのよ!」
息も絶え絶えに、あたしは言った。
「すまん。だけど、君が…」
「言い訳は聞きたくない!」
そう言って、あたしは立ち上がった。
と、あたしたちを、ライトが照らした。
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ライトはすぐに逸れ、一台の車が姿を現した。
旦那の車を塞ぐようにして、釣船屋の建物の横に駐車する。
運転席と助手席から、人影が降りて来たのが見えた。
道路を横断して、こちらに近づいて来る。
舗装が途切れるところで、二つの人影が停まった。
「紗子!」
聞き覚えのある声だった。
少しだけハスキーで、鼻にかかっている声。
「紗子。あんたなんでしょ?」
「ユリ? もしかして、ユリ?」
「久しぶりね」
「え? どうして、ユリが?」
「俺と一緒に来たからだよ、紗子」
隣りの人影が言った。
「え? サトシ?」
「いつまでそんなとこにいるのよ。こっちにおいで」
ユリが優しい声で言った。
あたしは、それに引き寄せられるように、元来た場所に戻った。
「びしょ濡れじゃない」
ユリが少し驚いたような顔で言った。
近くで見ると、ユリは相変わらず綺麗だった。
いや、最後に会ったときより、年齢を重ねた分、色気が増していた。
あたしはしばし、その美貌に見惚れた。
「なに? なんかついてる?」
ユリが怪訝そうな顔をして言った。
「え? あ、いや」
あたしは視線を逸らして、サトシを見た。
そして、今の状況を思い出した。
「ねえ、これ、どういうこと?」
突然、現れた親友と、いわゆる『不倫相手』。
あたしは事態が全く呑み込めなかった。
「ユキヒロさん、大丈夫?」
ユリが言った。
その視線の先に、湖中から戻って来た旦那がいた。
「ああ、何とか、ね」
「え?」
あたしはその会話が引っかかった。
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